お寺について
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浄土真宗本願寺派
親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、阿弥陀様の智慧と慈悲を人々に伝える同朋教団です。
「すべての生きとし生きるものを救いたい」と願われて仏となられた阿弥陀様。「非僧非俗」を掲げられた親鸞聖人。
仏様と聖人の生き方から学ばせていただき、愛憎が渦巻く世俗の生活を仏道として意味をもたせて歩む生き方を志す。
凡夫である身の上は変わりませんが、仏様との出遇いは有難いご縁だったと思わせていただけます。
私自身も凡夫ではありますので、立派な人間ではありませんが、このみ教えを関わった方々にお伝えできるよう日々努めています。 -
法久寺の歴史
法久寺24代目住職釋寶悟(ほうご)が書き残した法久寺系図によりますと、 現在は浄土真宗本願寺派法久寺として歩んでおりますが、 元々は天台宗大法山護国寺だったと記されています。
1232年、初代住職であった靜観(じょうかん)法師から始まり、 9代目正蓮(しょうれん)法師まで継承されました。 1465年、浄土真宗8代目蓮如上人が岐阜に教化にお越しになった際、 山号「利生山」と寺号「法久寺」を賜り、浄土真宗へと改宗されました。
こうして天台宗大法山護国寺9代目正蓮法師は、浄土真宗法久寺初代住職として新たに歩み始めたのです。 そこから血が途切れながらも、法灯は25代目釋寶龍(ほうりゅう)まで継承され、現在に至ります。 -
尾倉道場
法久寺寺伝と尾倉村史上巻によりますと、1628年、第12代住職釋宗雲(そううん)が尾倉村キリシタン一件に功績があって開基となりました。
同年3月27日尾倉村にて釋宗雲往生、道場裏の墓石に明記されていますが、風化が激しく法久寺と読める箇所があるのみと記されています。
江戸時代のキリシタン弾圧が激しかった頃、尾倉村にもキリシタン弾圧が行われました。道場の近くには首切り道場があったそうです。
その際、長良の法久寺の檀家だと言って助けていただいたので、今でも尾倉の人々は全戸が法久寺の檀家であるといわれています。
道場であるが故か「岐阜県宗教法人名簿」に記載はありません。 道場は個人建立のものや門徒の総意によって建立された惣道場(そうどうじょう)などがあり、中世末に数多く建立されました。
江戸時代になると本寺・末寺の関係を律する本末制度が幕府によって定められ、寺院化されていきました。しかし、寺院化しないで門徒の寄合や聞法の場として残ったものも多いです。 これらは、寺請証文(てらうけしょうもん)を発行しないことが多かったと思われます。
尾倉道場は、江戸期に創建されたもので特異の事情を有しているようです。現在も聞法の場として村の方々によって管理されています。
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一ッ葉塚句碑
第18代目慈観法師(俳名:季竹君)鳰帝連中は(帰童老仙とも言われています)、本巣郡北方の俳句の弟子連中の一人だったと記されています。
1773年、松尾芭蕉翁の年回忌法要を法久寺で勤修した折に建立されました。岐阜市内に存在する句碑の中では最も古いものとして記録されています。